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[プロたちの館] プロたちが辿った成長の軌跡。


「モノづくりの要。製造部門を統括するマネジメントと業務革新のプロ」金沢 敏秀(41歳)

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プロへの道 プロローグ

父親の背中を見て技術者の道へ

父は自動車メーカーのエンジニア。実家も工場の近くにあり、小さい頃から工場の運動会や納涼祭に連れて行ってもらっていた。技術者としてプライドを持って働く父の背中を見て育った影響か、大学への進学の際、迷わず技術系の学部を選ぶ。大学時代は樹脂などを成形する「塑成工学」を研究した。

住友ベークライトを選んだのは、ゼミの先輩から「やりがいのある面白い仕事ができる会社」という話を聞いたことに加えて「化学会社ですから化学系の出身者が中心ですが、モノを作っていくには当然、機械工学の知識や技術が必要になる。そういったところで自分の存在価値が発揮できるのではないか」と考えたからだ。入社して20年間、海外工場勤務を含め様々な経験を積み、現在は工場の製造部長という重責を務める。サラリーマン生活の約半分を経過した今、「あのときの選択は間違っていなかった」という確信を深めている。

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プロへの道1:1989年(入社1年目/22歳)~

生産設備の立ち上げを一から体験
高分子分離膜の開発

入社時の配属希望には「生産技術部」と書いた金沢だったが、配属は基礎研究所の開発センターだった。当時、住友ベークライトでは事業多角化を模索してICカードや異方性導電フィルムなど様々な新技術の開発が行っていた。金沢が配属されたのはその一つである高分子分離膜の開発チーム。樹脂を中空糸膜フィルターにしてモジュール化し、半導体洗浄用の純水精製や、原子力発電所の排水を浄化する製品を開発していた。
配属時、金沢の担当プロジェクトは、開発の最終段階に入っていた。最初の2カ月は研究所内の実験プラントや尼崎工場にあった生産設備で試作と評価の実習。その年の秋には津工場への設備移転が始まり、ここで生産設備の立ち上げを担当した。「実験プラントから実際の生産設備に移行するための移管作業。生産を担当するラインの人たちに作業手順を伝えるための手順書づくりや作業者の教育。そういった設備導入にともなう一連の作業を経験できたことは、生産技術を学ぶ上で非常にいい勉強になりました」。

予期せぬ突然の「辞令」

こうして無事に生産設備立ち上げに成功し、また再び開発業務に戻り、新製品の開発に着手。原料配合や生産条件を変えて試作を繰り返す日々を送った。そんな生活が2年ほど続いたある日のこと、金沢は静岡工場の生産技術部への異動を申し渡される。その異動は自分自身の本来の希望に沿ったものだったが、「ようやく研究開発生活にも慣れ、少しずつ自分の頭で考えたことを開発に活かせるようになってきた時期。先輩や仲間たちとも離れなければならず、そのときはちょっとショックでしたね」。
その直後、高分子分離膜事業は設備や技術ともすべて他社へ売却されることが決まった。「おそらく僕が異動したときには、すでに事業売却の方針が話し合われていたのでしょう」。当時はバブル経済が崩壊し、不採算事業の整理、本業回帰の動きが強まっていた時代。金沢にとっても「夢や理想だけでは事業は成り立たない」という企業経営の厳しさを思い知らされる出来事だった。

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プロへの道2:1992年(入社4年目/25歳)~

生産技術部で生産プロセスの改善に従事
“テーマは赤字製造部門の改善

静岡工場の生産技術部に赴任した当時、工場の大きなテーマとして上がっていたのが業績の改善だった。工場ではバブル期に生産能力増強のため規模を拡張したが、需要が思ったほど増えず経営の足かせとなっていた。金沢に与えられた課題は、こうした赤字製造ラインの改善と新規生産方式の検討である。
待ち望んでいた設備の仕事。ようやく機械工学の力が活かせると張り切ったが、大学時代に身に付けた知識程度ではとても歯が立たない。新しい設備の設計をする前に、まずは設備設計の基本から勉強しなければならなかった。そこで役に立ったのが書庫に残っていた膨大な資料。「最近は設備も機械メーカーに外注することが多くなっていますが、かつてはすべての設備を社内で設計検証・仕様決定、もしくは設計・製作していたので、図面だけでなく手書きの計算書まできれいに残されていた。これが非常に勉強になりましたね」。住友ベークライトのエンジニアのDNAは、こうして引き継がれていくわけである。

現場を見ることの大切さを知る

しかしさすがに設備設計は初めての経験だけに簡単には進まなかった。「ああでもない、こうでもない」と毎日、机の上で格闘していた金沢の目を開かせてくれたのは、直属の上司の一言だった。「『机の上で考えてばかりいないで、まずは現場を見て来い』と。また『現場がこういうことで困っているから、直してやってくれ』といった具体的な指示をもらうこともありました。こうして実際に何度も現場に足を運ぶうちに、どこを改善すれば一番コストをかけずに効率化できるのかが見えてきたんです」。
たとえば当時、積層板の検査のためのカットを3人がかりで作業していた。基材を機械に入れて一方をカット。出てきた基材を手渡しで元の位置に戻し、向きを変えて反対側をカットするという具合。金沢は基材の搬送を自動化して一人で作業できるように改良し、人員の削減と生産性向上を実現。こうした細かな見直しを積み重ねることで、ライン全体の人員を大幅に削減することに成功したのである。

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プロへの道3:1996年(入社8年目/29歳)~

マレーシアへ初めての海外勤務
毎日のようにトラブルが発生

静岡工場の効率改善に一応の目途が立ってきた頃、金沢は再び異動の辞令を受ける。今度の赴任先はマレーシアの工場。「ここは紙基材フェノール樹脂銅張積層板の第2期ラインを新設したばかりで、生産技術としてその立ち上げを行うということでした」。導入された設備は、静岡工場にあった製造ラインの改良版であったため、「大したことはない」と高をくくっていたが、その予想は大きく裏切られる。
いざ操業を開始すると装置の初期トラブルが頻発。また従業員も新ラインに習熟していないため、なかなか品質が安定しない。毎日のようにトラブルが発生した。「夜中でも電話で呼び出され、当初は、『またか』とうんざりしていたのですが、嫌がって逃げていたら、いつまでもこの状態から抜け出せないことに気付き、覚悟を決めて一つ一つ改善していきました」。最初の1年は、休日も無い様な状態でラインの改善に取り組んだという。

初めてのマネジメント経験

当初は生産技術担当の技術者として現地入りした金沢だったが、半年後からは製造ラインの責任者、すなわちマネージャーとしてライン全体の統括をすることになった。初めてのマネジメント経験である。
「従業員は大半が20歳前後の若者たち。会社というより学校のような雰囲気で、当初は、仕事に対するモラルや熱意も日本とは比較にならないほど低かった」。現地語であるマレー語を勉強し、一人一人名前で呼びながら手取り足取り作業を指導していった。従業員は約300名いたが、ほどなくして全員の名前を記憶した。その甲斐あって3年経った頃には休日、夜間のトラブルはほとんどなくなり、歩留まり(良品率)も大幅に改善。「初めての海外でトラブル続出と大変でしたが、逃げずに頑張ったことで大きな成果を得られた。また国内ではマネージャーになるのは早くても三十代半ばくらいからですが、30歳の若さでマネジメントを経験できたのは非常に有益な経験でした」。

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プロへの道4:2002年(入社14年目/35歳)~

モノの見方を180度変えた生産革新活動
トヨタ生産方式の衝撃

6年間のマレーシア勤務を経て、静岡工場に戻った。その2年後に積層板製造部の部長に就任。まさに順風満帆の技術者人生に思えるが、本当の試練はここからだった。2004年6月から始まった(会社としては2003年6月から生産革新活動をスタート)のが、全社的な生産革新活動である「SBPS(住友ベークライトプロダクションシステム)」。コンサルタントの指導を受けながらトヨタ生産方式を導入するというものだが、これが今までのモノの見方や考え方を180度転換させられる衝撃的な経験となった。
「たとえば『5S』の最初の二つである整理、整頓なんて一見すると簡単に思えますが、トヨタ生産方式でやると大変なことになる。必要なモノが、必要な時に、必要なだけ置いてあるか、基準ルールは決められており、見える化できているかということを、すべての職場で共通化しなければいけない。しかも出来るまで繰返しやる。突き詰めていくと終わりがない。作業量も膨大になる上に現場の抵抗も大きく、最初は『なんでそんな面倒くさいことをやるんだ』と思いましたね」。

改革の道はこれからも続く

現場責任者の金沢がそんな調子である。「最初の1年ほどはほとんど改善は進まなかった。コンサルタントの先生には、『あんたはクビだ』『存在価値なしだ』と何度も言われました」。しかし半信半疑ながらもやっているうちに少しずつ効果が現れてきた。『5S』や作業のムダをなくし、標準化を徹底することで、少ない人数で作業が出来るようになった。さらにはこうして『活人』できた人員を他の仕事に振り向けて組織の再編も進んだ。
「とくに大きかったのは職場間の壁がなくなった点。それまでは改善といっても職場ごとにバラバラにやっていたのですが、全員が同じモノの見方、考え方ができるようになり、職場が違っても話ができるようになった。『モノづくりは人づくり』という言葉がようやく理解できた気がします」。しかし改革はまだ道半ば。これからも改善を続けて、業績の向上と人財の育成に取り組んでいきたいと力強く語る。

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金沢敏秀に聞くプロとは?

今の自分を採点すると・・・
60点

最終的なゴールは自分が社会人を終えるときにわかるものではないでしょうか。ゴールまで成長し続けることを理想と考えて、現在は約40年の会社員生活の中でちょうど半分の20年を経過したところですから、20年/40年=50点としておきます。


自分にとって「プロ」とは?
仕事でお金をもらう人は全員がプロであるべき

「プロフェッショナル」というと格好良く聞こえますが、本来、プロフェッショナルの定義は、仕事でお金をもらえるということ。つまり、給料をもらって働いている人間は、全員がプロ意識を持たなくてはいけないわけです。そしてプロのプロたる所以は、常に給料以上の働きを目指すこと。つまり常に上を目指しつづけること、常に成長し続けることがプロフェッショナルには求められるわけです。

プロになるために。
課題を克服し、常に前へ進もうと努力すること

自分としてはまだ成長の途中であって、完成したプロフェッショナルだとは思っていません。ただ会社の業務の中でいろいろな課題を与えられて、それを克服しようと努力することで少しそれに近づけたように思います。つまり常に前に進もうと努力することがプロフェッショナルへの道といえるのではないでしょうか。

成長への転機。
2004年から始まったSBPS活動

小さな転機はいろいろありましたが、やはり一番大きな転機は2004年から始まったSBPS活動。入社からそれまでの十数年と比べても、この3年ほどは非常に密度が高い仕事をしているという実感です。

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